2013年5月アーカイブ

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他力のおかざり
~私が供えてのすくいではない、阿弥陀さまが他力でおすくい~

「なぜ真宗ではお仏壇に水やお茶をお供えしないのですか?」

浄土真宗は『阿弥陀さまがおすくいになる』という宗旨です。
人間が「助けてください」とお願いするのではありません。私が願うのではなく、阿弥陀さまが「必ずすくう」と願って下さっているのです。全て阿弥陀さまのはたらきですくわれます。これを『他力』といいます。

『他力』とは「他人まかせ」という意味ではありません。言葉が簡単なだけに多くの方が意味を間違え「他人の力」と勘違いしたのでしょう。『他力』とは阿弥陀さまが私をおすくいになる力のこと。それ以外にはこの言葉は用いません。

100パーセント阿弥陀さまのはたらきでのおすくいです。そこに私の用意するものは微塵もありません。これが有難いのです。
私の心も、私の行いも用いないで、ただただ阿弥陀さまのお力だけでおすくいということです。阿弥陀さまは、愚かで悲しみが深い私をご存知なのです。清らかな心もおこせず、清らかな行いも積むことができぬ者だと見抜かれました。故に何も要求なさいません。悲しい私共を忘れなさる日もありません。私の心をなじることもありません。私たちを「そのまま」おすくいになるのです。

 阿弥陀さまはこのすくいを『南無阿弥陀仏』となって完成して下さいました。阿弥陀さまの功徳の全てをあげて私に称えられる『南無阿弥陀仏』という名前の仏になられました。この口から称えられる仏さま。それは私共の日常と一つになって下さる仏さまになられたということです。『南無阿弥陀仏』とこの口から出て、この耳に聞こえ、「お前をすくうよ、お前に心配させないよ、お前が仏になる準備は阿弥陀が全てするんだよ、安心せよ、安心せよ」と聞こえる喚び声であると理解するものです。

 こう聞くと私共としては有難いと思うばかりです。「すくいは完成している、私を願う阿弥陀さまがおられる、いつも阿弥陀さまがご一緒である。ああ有難いなぁ。」そのように思う心をご恩報謝といいます。従ってこの心からはじまる称名も、おつとめも、お仏壇のおかざりも、すべてご恩報謝です。それが浄土真宗の教えです。

 お仏壇にお仏飯を上げるのもご報謝です。ただただ、ご報謝です。私の心、行いを仏さまに供えて救われるのではありません。「これだけしたからとか、あれだけしたから」という思いは必要ありません。ただただ、ご報謝です。この他力の教えを伝えるために先人方はお仏壇のおかざりを簡略にしました。「私の心や行いを供えてすくわれる」という誤りにおちいらないように用心しました。ですからお茶も水も排除したのです。

「でも、お茶や水をあげんと喉がかわくのでは」と心配する方もいます。そのようなお茶を上げたい人情が大事なのではなく、今日も一日私を忘れなさらぬ他力の阿弥陀さまをよろこぶこと大事なのです。

また、先人方は、他の仏さまや菩薩さまも他力の教えを誤らせるので安置せぬように決めました。阿弥陀さま一つです。不動明王も釈迦仏も観音菩薩もお仏壇には用いません。

「どうせなら色んな仏さま、いろいろあったほうが利益があるのでは」と思う方もおられます。阿弥陀さま一仏です。他力に徹しておかざりしていくことが大事なのです。

お華も灯明もあげたことをほこるのではありません、功徳にするのではありません、あれは阿弥陀さまのお慈悲と智慧を、仏前に座ったものが味あうためにおかざりするのです。そのこころはもちろん「ああ、ありがたいなぁ、すべて阿弥陀さまのおかげであった」というご報謝であります。


深川倫雄和上が昭和58年に中外日報にお書きになった「一切が御恩報謝 供えての救いを排除」を参考に書きました。深川和上のお言葉をかなり拝借しております。八代組報に載せるために書きました。水やお茶をお仏壇にあげない理由。組内ご門徒さん方に是非読んでいただきたいです。
「他力だよ。阿弥陀さまがおすくいになるんだよ。」和上からそんな風に言われているような気持ちです。
この中外日報の記事は大分に出向したときに、稲田静真先生より頂きました。ありがとうございました。

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