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他力のおかざり
~私が供えてのすくいではない、阿弥陀さまが他力でおすくい~

「なぜ真宗ではお仏壇に水やお茶をお供えしないのですか?」

浄土真宗は『阿弥陀さまがおすくいになる』という宗旨です。
人間が「助けてください」とお願いするのではありません。私が願うのではなく、阿弥陀さまが「必ずすくう」と願って下さっているのです。全て阿弥陀さまのはたらきですくわれます。これを『他力』といいます。

『他力』とは「他人まかせ」という意味ではありません。言葉が簡単なだけに多くの方が意味を間違え「他人の力」と勘違いしたのでしょう。『他力』とは阿弥陀さまが私をおすくいになる力のこと。それ以外にはこの言葉は用いません。

100パーセント阿弥陀さまのはたらきでのおすくいです。そこに私の用意するものは微塵もありません。これが有難いのです。
私の心も、私の行いも用いないで、ただただ阿弥陀さまのお力だけでおすくいということです。阿弥陀さまは、愚かで悲しみが深い私をご存知なのです。清らかな心もおこせず、清らかな行いも積むことができぬ者だと見抜かれました。故に何も要求なさいません。悲しい私共を忘れなさる日もありません。私の心をなじることもありません。私たちを「そのまま」おすくいになるのです。

 阿弥陀さまはこのすくいを『南無阿弥陀仏』となって完成して下さいました。阿弥陀さまの功徳の全てをあげて私に称えられる『南無阿弥陀仏』という名前の仏になられました。この口から称えられる仏さま。それは私共の日常と一つになって下さる仏さまになられたということです。『南無阿弥陀仏』とこの口から出て、この耳に聞こえ、「お前をすくうよ、お前に心配させないよ、お前が仏になる準備は阿弥陀が全てするんだよ、安心せよ、安心せよ」と聞こえる喚び声であると理解するものです。

 こう聞くと私共としては有難いと思うばかりです。「すくいは完成している、私を願う阿弥陀さまがおられる、いつも阿弥陀さまがご一緒である。ああ有難いなぁ。」そのように思う心をご恩報謝といいます。従ってこの心からはじまる称名も、おつとめも、お仏壇のおかざりも、すべてご恩報謝です。それが浄土真宗の教えです。

 お仏壇にお仏飯を上げるのもご報謝です。ただただ、ご報謝です。私の心、行いを仏さまに供えて救われるのではありません。「これだけしたからとか、あれだけしたから」という思いは必要ありません。ただただ、ご報謝です。この他力の教えを伝えるために先人方はお仏壇のおかざりを簡略にしました。「私の心や行いを供えてすくわれる」という誤りにおちいらないように用心しました。ですからお茶も水も排除したのです。

「でも、お茶や水をあげんと喉がかわくのでは」と心配する方もいます。そのようなお茶を上げたい人情が大事なのではなく、今日も一日私を忘れなさらぬ他力の阿弥陀さまをよろこぶこと大事なのです。

また、先人方は、他の仏さまや菩薩さまも他力の教えを誤らせるので安置せぬように決めました。阿弥陀さま一つです。不動明王も釈迦仏も観音菩薩もお仏壇には用いません。

「どうせなら色んな仏さま、いろいろあったほうが利益があるのでは」と思う方もおられます。阿弥陀さま一仏です。他力に徹しておかざりしていくことが大事なのです。

お華も灯明もあげたことをほこるのではありません、功徳にするのではありません、あれは阿弥陀さまのお慈悲と智慧を、仏前に座ったものが味あうためにおかざりするのです。そのこころはもちろん「ああ、ありがたいなぁ、すべて阿弥陀さまのおかげであった」というご報謝であります。


深川倫雄和上が昭和58年に中外日報にお書きになった「一切が御恩報謝 供えての救いを排除」を参考に書きました。深川和上のお言葉をかなり拝借しております。八代組報に載せるために書きました。水やお茶をお仏壇にあげない理由。組内ご門徒さん方に是非読んでいただきたいです。
「他力だよ。阿弥陀さまがおすくいになるんだよ。」和上からそんな風に言われているような気持ちです。
この中外日報の記事は大分に出向したときに、稲田静真先生より頂きました。ありがとうございました。

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お経にどのようなことが説いてあるか想像したことありますか?

漢文ですから「むにゃむにゃ」と聞こえるかもしれませんが。

私たちは「あのようにしなさい、こうしなさい、それをしたらいけません」と言われて生活していますね。

学校でも職場でも結婚してからも年をとってからも、そんな事を言われ続けます。

それだからか、お経にもそのような事が書いてあると勘違いする人もいます。

「大無量寿経」という浄土真宗の真実の教には、ただただ「阿弥陀さまが必ずおすくいになる」ということが説いてあります。

阿弥陀さまは私の愚かさを見抜いてくださいました。そのような愚かで悲しみが深い私に「あのようにしなさい、このようにしなさい、それをしたらいけません」とは仰せにならない。

「あなたは何も計らわないでいい、あなたを必ずすくう」と仰せくださいます。

阿弥陀さまは名前の仏、声の仏となって私に至り届いてくださいます。私の口から「南無阿弥陀仏」と出て、私の耳に「南無阿弥陀仏」と聞こえてくださいます。

お念仏は阿弥陀さまの喚び声であります。「あなたに至るよ、私にまかせきりなさい、私の慈悲に宿りなさい、私はあなたを助けずにはおれない親であるよ、お浄土へ招き引くよ、あなたの心を使い信心を恵み、あなたの口を使って南無阿弥陀仏と出てくるよ。お念仏の味を教えるよ、このまことの道をおいで、あなたは何も計らわなくていい、あなたを私の仰せのとおりすくうよ。」と喚んで下さいます。これがあなたの口からでて下さるお念仏さまのおこころです。

私の口から出るお念仏は私を喚ぶ阿弥陀さまの声。「必ずすくうお浄土へ生まれさせる」という尊い声です。

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西本願寺のホームページに副住職木下明水の法話がアップされています。
インターネットで聴聞できます。
ラジオ放送でも聴聞できます。

よろしくお願いいたします。

みほとけとともに

大法要等のため開講が遅れていました勝明寺真宗基礎講座ですが、6月から始めます。
第4期になります。
受講生も下は20代から上は80代まで、60名ほどの受講です。
去年までは歴史、教義、作法、三部経、正信偈、歎異抄と学んできました。

今年度は正信偈を中心にすすめていく予定です。

後日再び案内いたしますので、ぜひ参加くださいませ!

毎回、お勤め、住職法話、副住職講義、質問しつつお茶お菓子です。
夕方4時から5時半くらいまで。

他のお寺からも受講されていますよ。

お気軽にどうぞ!

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あるご門徒さん宅に小学生のおもしろい女の子がいる。
3年生か4年生くらいの女の子。面白い子で、おばあちゃんとお寺に行くのが大好き。
おばあちゃんが一人でお寺に行くと泣いて悔しがる。
なぜならお勤めするのが大好きなんですと。だからお寺に行けないと泣くのです。
聖典をおしいただいて、聖典を開いてお坊さんと一緒にお勤めするのが大好き。なんとうちの父ちゃんのファンなんだと!
毎月お参りに行くと、家にいるときは必ず後ろに座ってくれる。

最近、親鸞聖人がお書き下さった『正信偈』のお勤めを暗記中らしい。
いま現在2ページ暗記完了!

私が「ぜんぶ漢字だから意味わからんだろ?」と聞くと、ニコニコと頷く。
「じゃあ今日は少しだけ教えてあげよう」と言うと、目を輝かせる。

明水「法蔵菩薩因位時(ほうぞうぼさついんにじ)とあるでしょ、これは阿弥陀如来という仏さまが法蔵菩薩という位にさがられたときにという意味なのだよ。わかる?」
女の子「・・」

明水「ほうぞうぼさつという菩薩さまのくらいのときに、君のことをどうにかしなきゃと思われたんだね」
女の子「・・」

明水「君が生まれるもっともっともっと前から君のことをずーっと思ってくださったんだね法蔵菩薩さまは」
女の子「・・」

明水「それで長い長い苦労を君のためにしてくださったんだね」
女の子「・・・・」

明水「覩見諸仏浄土因(とけんしょぶつじょうどいん)とあるでしょ、この覩見というのには見るという字が入ってるでしょ。法蔵菩薩さまは君のために210億の仏さまの世界を見たんだね」
女の子「・・・・!!!!

明水「そして君をすくいとるすばらしい世界をつくられたんだね」
女の子「・・・・」

明水「長いご苦労の末に菩薩さまから仏さまになられるんだけど、そのとき、声の仏さまになられたんだね」
女の子「・・??

明水「それが南無阿弥陀仏なんだねー」
女の子「・・・??

明水「君の口にナンマンダブツと響く声の仏になられて、君の耳にナンマンダブツと聞こえる仏になられたんだねー
女の子「・・・・???

明水「ナンマンダブツと言ってみなさい」
女の子「・・なんまんだぶつ」

明水「聞こえた?」
女の子「うん」

明水「よかったね阿弥陀さまがいつも一緒だね」
女の子「へーー!

明水「じゃあ今度は阿弥陀さまの十二の光の話をしてやるからあと2ページ暗記しときなさい」
女の子「・・・・・・」

明水「阿弥陀さまは君をいつでも十二の光で照らしているよ」
女の子「・・!!!!

女の子の目はきらっきらに輝いていました。

仏さまの話は目を輝かせるんだなー。

・・うわさ話で目を輝かせる人もいるけども。

日頃うわさ話を好んで聴き、うわさ話を好んで話す私たちですから、お寺で仏さまの話を聞きませんか。
うわさ話は人さまの話。仏さまの話は私に問いかかってくださる話。生まれて年をとって病にであって死んでいかねばならない私に問いかかってくださるお話です。

深川倫雄勧学和上が、『大無量寿経』の講義の途中で、
「あんたら坊さんは幸せもの、ご門徒さんの法悦の中を生きる幸せもん」とおっしゃった。
法悦とは仏法に遇えた悦び。
ちっちゃな女の子の法悦に育てられた一日でした。

今現在、この子が暗記しているのは。
帰命無量寿如来 きみょうむりょうじゅにょらい
南無不可思議光 なもふかしぎこう
法蔵菩薩因位時 ほうぞうぼさついんにじ
在世自在王仏所 ざいせじざいおうぶっしょ
覩見諸仏浄土因 とけんしょぶつじょうどいん
国土人天之善悪 こくどにんでんしぜんまく
建立無上殊勝願 こんりゅうむじょうしゅしょうがん
超発希有大弘誓 ちょうほつけうだいぐぜい
五劫思惟之摂受 ごこうしゆいししょうじゅ
重誓名声聞十方 じゅうせいみょうしょうもんじっぽう

ナイスだぞおもしろいちびっ子!icon:thumbsign

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石を川に投げると暗い川底に沈んでいきます。これは誰もが知っていることです。だから、沈んでいく石に向かって「浮かんでこい」と言う人はいません。
阿弥陀様は私たちを見抜かれました。「このものたちはまことなるものを何ももたない。おのれが造った罪悪(つみあく)のため、迷いの命を何度も何度も送るだろう」と。
私たち生きとし生けるものは迷いの命に沈みます。阿弥陀様は私たちに向かって何も要求されません。なぜなら沈むしかないものに「己の力で浮かんでこい」と言ってもどうしようもないからです。 阿弥陀様は、愚かしい命を繰り返すばかりの私たちに「行動」や「心」や「力」を要求するのではなく、ただただ「救い」を告げられました。石を川底から手ですくいあげるように、どうにもならない私たちを、我が子を抱くようにかかえあげ、お浄土に生まれさせ、苦を抜いてくださるのです。 去年のお盆から今年のお盆の間の一年間で、私の住む八代市だけで約1,400人の方がなくなられました。82年間の命もありました、50年間の命もありました、母のお腹から出て数日間の命もありました。約1,400人の方が亡くなられたということはその5倍10倍と涙を流された方々がいたということです。 我が子の亡骸を抱いて嗚咽された方もありました、おやすみと言って次の日起きてこなかったご主人を抱きしめて呻いた方もありました。様々な生き様をおくる私たち、時には呻くことしかできないような私たちに、何か要求するのではなく、共に涙を流しながら「安心せよ安心せよ」と抱きかかえてくださる仏様が阿弥陀様であります。

勝明寺副住職 木下明水

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 あなたが称える念仏「ナモアミダブツ」は、どのようにあなたの耳に聞こえていますか?
 「ナモアミダブツと称えるのだからナモアミダブツとしか聞こえない」という方もおられるでしょう。
 しかし、私が称える「ナモアミダブツ」は、私の耳には「安心せよ、必ず救う阿弥陀が今お前に届いているよ」と聞こえます。
 あなたが「ナモアミダブツ」と称え、その「ナモアミダブツ」が「安心せよ、必ず救う」と聞こえているならば、そのことが一番ありがたいことです。阿弥陀様は、私たちの口を開き、舌を動かし「ナモアミダブツ」という声の仏の姿で出て下さいます。いろんな薄汚いことをはき、人生に愚痴をこぼしてきた口にも「ナモアミダブツ」と届いてくださいます。人生の苦難にうちひしがれてうめき声ばっかりの口にも「ナモアミダブツ」と届いてくださいます。阿弥陀様はどうにもならない私たちの苦しみをともにしてくださいます。そして「ナモアミダブツ」の声の姿で届き、「安心せよ必ず救う」と耳に響いてくださるのです。あなたの耳には「ナモアミダブツ」がどのように響いていますか?
 蓮如上人は新年の挨拶にきた道徳という方に「道徳はいくつになるぞ。道徳念仏申さるべし。」と仰せになられました。そして自力の念仏をいましめ他力念仏をすすめられました。阿弥陀様のはたらきを他力といいます。お念仏出てくる身に育つことはありがたいことです。

勝明寺副住職 木下明水 新年熊本教区テレホン法話

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「五劫(ごこう)」という言葉がある。「劫」とは仏教の時間の単位で、四十里四方の立方体の岩を、百年に一度っきり軟らかな衣で撫でることによってこの岩が磨り減ってしまい、跡形が無くなってしまうまでの時間をいうそうである。その五倍が「五劫」だから、まさに気の遠くなるような天文学的以上の時間といえる。
阿弥陀如来(あみだにょらい)は、その前身の法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)の時、これほどの時間を費やして、私共のことを思いつめてくださったという。「そんな馬鹿な」と、高座に座った布教使さんから、この話を聞きながら、吹き出した子供の頃を今、懐かしく思い出す。
時が流れ、所は変わり、コンピューターを駆使する時代となったが、人間そのものは一向に変わりばえがしない。変わるどころか、ますますどうにもならぬ深みに沈んでいくのが、今日の悲しさである。
この頃、お年寄りの世界で、長生き派と早死に願望派が対立してきた。生きられるだけ生きたいという派と、反対にボケでもしたら大変だから、早くポックリ死にたいという二派がそれである。
ある日、あるお年寄りの一言。「ご院家様、今は結構な世の中、年金はくれるし、病院はタダ同然、ゲートボールも面白い。二度とこられぬこの世なら、生きられるだけ長生きせんと損」とニコニコムード。
次の目、全く同じ人物のネクラの繰り言。「ろくな裟婆ではございません。早うお浄土へ行かんと」どうも息子達から冷たくあしらわれたらしい雰囲気。
実に長生き派と早死に願望派は、一人の人間の中にも同居しているようである。哀れにも年金受取りの帰り際だけ長生き派で、すぐ早死に派に変身してしまうお婆ちゃんも身の周りに意外と多いものだ。
事実、人間の心ほど移り変わりの激しいものはほかにない。その癖、変遷極まりない自己の感情を拠り処としては愚かな過ちを繰り返し、無様な生きざまを晒しているのである。
だからこそ阿弥陀如来は、水が低い方へと流れるように、法蔵菩薩と一段下って救いのスタートを起し、五劫の涙を流してくださったのである。
五劫の思い入れに始まった私の救済が、はや完結したことを物語っているのが、阿弥陀如来像である。木や紙の仏であってもご本尊なればこそ、死んだ我が子の写真が紙とは思えぬが如く、生きたお慈悲が顕れてくださっている。
座ってはおれぬと立ち上り、今にも一歩私の方へと歩み進んでくださって、毎日お念仏の声にまでなってくださっている如来の躍動をもったいなく思うことである。

勝明寺住職 木下慶心「浄土真宗とっときの法話8」

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勝明寺・副住職による「ブログ法話」カテゴリーを開設いたしました。

講演での法話の再録や、当Webサイト書き下しの法話を更新する予定です。
また、勝明寺・住職の法話も、副住職の代筆による更新で行う予定です。

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